初めて多久聖廟へいきました。
すごく歴史を感じる場所です。
素晴らしいですね!
まだまだ知らないところがたくさんありますね!
勉強せんばですね\(^o^)/
多久聖廟とは!
多久聖廟は、宝永5年(1708)多久茂文が孔子像を安置し、領民に「敬」の心を培わせるために建てた孔子廟です。 現存する聖廟としては足利学校(栃木県)、閑谷学校(岡山県)に次ぐ古い建物です。 建築様式は、禅宗様仏堂形式と呼ばれる我が国の代表的な建築様式ですが、彫刻や文様で中国的な雰囲気を出しています。現在は、国指定重要文化財として大切に保全されています。
多久聖廟の正面です。
素晴らしい作りですね。
東原庠舎の成り立ち
江戸時代、多久氏によって統治された多久邑(ゆう・村の意味)は山あいという土地柄本藩鍋島(なべしま)家の諸政策のために苦しい財政状況で、邑民の生活も極度に貧困でした。そんな時に多久家の4代邑主となったのが多久茂文(たくしげふみ)です。茂文は多久を治めるにあたり邑民の教育が何よりも必要だと考え、まず、元禄12年(1699)、邑校である東原庠舎の前身の学舎を完成させ、そこに孔子像を安置して学問に適した環境を整えました。
茂文が起こした東原庠舎は朱子学の学校で、明治になるまで、漢学や和学、武芸などの文武両道を教える場として重要な役割を果たしました。侍の子弟においては修学を相続の条件とするなど、子弟教育を第1にあげていますが、侍以外の者にも入学を許可していました。身分を問わず学問を志す者すべてを受けいれたことは、当時にあっては画期的であり、注目すべきことだといえます。そして多久は、いつしか学問の地、また昼夜とも明るい仙人の住む場所という意味の「丹邱(たんきゅう)」とまで言われ、その名は遠く江戸まで達するようになったのです。
茂文や東原庠舎の初代教授である川浪自安(かわなみじあん)らが基礎を築いた邑民教育政策は、次第にその成果を表しはじめ、幕末から明治にかけて、いよいよ開花していく事になりました。のちに我が国の電気工学の先駆者となる志田林三郎(しだりんざぶろう)をはじめ、明治刑法の草案者である鶴田斗南(つるだとなん)、微量天秤で学位を受けた飯盛挺蔵(いいもりていぞう)など、東原庠舎から日本の近代化や郷土のために尽くした人物が、数多く輩出しました。
現在の東原庠舎は、平成3年に学芸文化の研鑽振興を図るための宿泊型社会教育施設として、当時の面影を残しつつ現代風に再建された施設です。